ダイアリー 18/07/27

「本を読むことで人は一度の生でいくつもの人生を体験することができる」とはよくいうが、その本で描かれていた彼女は遠くの人生の主なんかじゃなく、まぎれもなく、わたしだった。


わたしには今も昔も「活字を読む」という習慣がない。

最後にまともな小説を読んだのはおそらく 10 年近く前、当時付き合っていた恋人からすすめられて読んだ「アルジャーノンに花束を」だった。こんなにも儚くて素晴らしい物語がこの世にあるものかと何度も読み返していたく感動したのを今でも覚えているが、それ以降はそれまでと同じく自らすすんで小説などを読むことはなかった。(ダニエル・キイスつながりで「24人のビリー・ミリガン」もすすめてもらったけど、途中でくじけてしまった。)

ここ最近は読む本といえばもっぱら技術書か実用書の類ばかり。よほどの理由さえなければこれからもそうだったろうし、そもそも「読書をしていない」ということに意識が向くこともなかった。好きでも嫌いでもなく、いわゆる「興味がない」対象だというだけのことだった。

こんな出だしの文章を書いて強調したくなるほどに、すっかり活字離れしたわたしの心を強烈に掻き立てたその本。ふとしたきっかけで検索エンジンの結果から偶然見つけたとは思えないくらいに、そこに住む主人公の女性、その人の年齢、性格、仕事、置かれている状況、そして感情の中身すべてがまさに今わたしを取り囲むすべてと一致していて、「わたしのことを観察して本にしたのではないか」と本気で思ってしまうくらい、わたしにとってリアリティのある…いや、リアリティそのものだった。

既視感からくる驚きから一気にその世界に引き込まれてからは、学生時代の理科の実験の火をつけたマグネシウム板みたいに、かーっと勢いよく燃える興味とともに読み進め、自分でも驚くくらいあっという間に読了してしまった。

その衝動は今思えば、物語が面白いからというよりも、主人公の彼女―つまり「わたし」―がこのあとどんな人生をたどりどんな風景を目にすることになるのかを早く知りたい、という、好奇心と同時に無限の幸福を期待し求めるような想いからくるものだったかもしれない。

随所に散りばめられた感情表現は、わたしの心の中の喜びだけでなく不安や悩みや叫びまでもすべてそのまま文字におこされている様相で、迫り来る緊張感に幾度も涙を流した。


その物語は、いかにも「この世の読み物」らしく完結を迎えた。

主人公には救いの手がさしのべられ。やりたいことを仕事にして功績も残して成功し。たくさんのお金も手に入れ。(本だけど)絵に描いたようなハッピーエンド。

エピローグまで読み終えたわたしの心には、安堵の気持ちをうっすらと覆うようにグレーの雑音が響いていた。 彼女が幸せになれて本当によかった。 けど、これは作り話だからこんなにうまくいっているんだろうか?では、作り話のような現実にいるわたしは?いったいわたしは誰なんだ?「現実を見ろ」?「本のようにうまくはいかない」?

…2階の席から見下ろす真昼の須田町交差点は眩しすぎて、今さっきまで目の前で繰り広げられていた物語の世界から戻ったのか、物語の世界「に」戻ったのかの判断を一瞬にぶらせたが、窓の下に広がるのはまさに「現実のいま」だった。

氷が溶けて薄まったレモネードを飲み干し、オフィスに戻るため席を立つ。

わずかな興奮は残っていたが、頭の中にはもう黒い画面とカラフルな文字が広がっていた。